私と満州3

最前線でソ連軍と対峙していたその時、終戦の知らせが入ったようです。父の所属していた連隊には500名位の兵隊が所属していました。連隊長はソ連に降伏すれば、シベリア行きは免れないと判断し、逃避する道を選んだとのこと。
それからハルピンから大連まで約900kmの逃避行が始まったのです。最初は兵糧を消費しながら一団となっって進んでいたが、次第に別れ別れになってゆき、少人数のグループで行動するようになったようです。最初500名位だった人数も別れ別れになり、父の集団は20名位になり、日中は2m程もある草原に身を隠し、夜間に移動したそうです。目指す大連の方角もわからない為、地図を思い浮かべ、とりあえず満州鉄道を目指そうということになり、夜空の北極星を頼りに、ひたすら歩いたそうです。いよいよ食料も尽き果て、食料を運んでくれた軍馬しか残らなかったので、その馬を殺し、食料としたとのことでした。父は馬といえども、一緒に自分達を助けてくれた戦友だとの思いから、その馬の肉を食べることはできなかったようです。
飲まず食わずが続き、蛇や蛙、野草で飢えをしのぎながらの行程です。満州鉄道に近づくにつれて、引き上げ者の死体があちこちの道ばたにころがっていたとのことです。軍服を着ていると、ソ連軍に見つかったら連行されるので、一般人の服を確保し、満州鉄道を目指しました。
なんとか、満州鉄道にたどり着いた時点では、父の仲間は1人になり、2人で避難民を乗せた列車に乗ることができたのですが、ソ連軍の臨検に会えば連行されるので、車両の箱ではなく、車輪の空間に体を縛り付け線路を見ながら大連に向かったのです。途中、やはりソ連軍の臨検に会い、ソ連兵は避難民を全員車外に出して、金目の物を略奪したそうです。ソ連兵の腕には、避難民から略奪した腕時計を幾つも付けていたことが印象的だったと回顧していました。
いよいよ大連に近くなり大連市郊外で列車から降りて、ある村に差し掛かった時にソ連兵の目に止まり「というのも、父は堀の深い日本人離れした顔付きですが、もう1人は眼鏡を掛けた典型的な日本人顔だったので」銃を突きつけられ銃殺されそうになったようです。「もうだめかと思った瞬間、死を覚悟したそうです。」「人間、死を覚悟したら落ち着くものだ」と言っておりました。
ところが、そこへ村の中国人の村長さんが寄ってきて、「この2人は自分の知り合いで、日本兵ではないと」かばってくれたのです。何と、その村長さんは父が教員をしていたことを知っており、そのおかげで助かったのでした。ハルピンから大連に着くまで約3ヶ月かかった逃避行でした。
やがて、大連の自宅に帰り着きました。体はやせ細り服はボロボロだったようです。大連は蒋介石の率いる国民党軍の支配下にあったのですが、蒋介石が「在留日本人と降伏した日本軍人に対する殺害及び略奪行為を禁止し、命令違反には厳罰を処する」との命令を発したので、引き上げ船に乗船するまで無事に過ごすことができ、1年後に日本に引き揚げることができたのです。父は、戦後も教員として働き、昭和26年に私は誕生しました。もし、村の村長さんが父達を助けなかったら今、私は存在しないかも知れません。父は教員として生徒中心の教育を心がけ、できない生徒の指導に力を入れていましたが、この逃避行が体に無理を強いたようで56歳で逝去しました。
今、日本と中国は摩擦を増やし、険悪な方向へ進もうとしていますが、同じアジア人同士仲良く共生できるようになってもらいたいものです。